フィリピ2:12-13
救いを達成する
12節を見ます。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」
ここで、愛する者たちよ、と言う表現はまるで親の心情で、牧師の心情でパウロは訴えます。
パウロは今、獄中で手紙を書いているのです。頑張ってほしい,神様の御言葉だけを握りしめて生きてほしいというパウロの強い願いであります。
フィリピ2章5節で「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」
そして、フィリピ4章2節で、「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」、ここで私はエボディアに勧め、シンティケに勧めます。と言う部分ですが、どうやらこのように手紙を書いているパウロは今、何か心にあるのでしょう。
おそらく、その教会の中で何か問題があったのでしょう。パウロがいたときは熱心にやっていた聖徒たちが、パウロがいないために聖徒たちの心が少し緩んでいたのかもしれません。私たちの子供たちも、親がいるときといないときが違うのではないでしょうか?子供たちは、親が出陣した後、親がいる時といない時とで違いがあるのだろうか? もちろん、親がいる時といない時で違いがあるのです。パウロはこんなことを知らなかったのでしょうか? 私の人生の中でイエス様が現れる私の人生とは何か?
それが12節で「自分の救いを達成するように努めなさい。」と言われています。
これはフィリピ教会の聖徒たちに言われた言葉です。ここで言っているのは、通りすがりの人々にイエス様を信じて救いを得なさいと叫ぶ言葉ではありません。イエス・キリストの十字架による救いの道を大胆に伝える
信仰者になりましょう。
皆様は救いの確信がありますか?
救いの確信のない信者ではありませんか?