主に栄光を
コリント(第一)6:12-14
パウロはコリント(第一)3:16ー17節「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」
そして、パウロは6:19節でも「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」と語っています。
さて、3章では教会協同体の問題を取り上げていれば、
6:19節では個人的なことをパウロは勧めています。
12節「「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。」
主を信じれば、律法から自由を得るのであります。
主イエスもヨハネ8:31-32節で「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」ここで言われている自由とは神様が最初に人間を創造
する時に与えた自由であります。
しかし、この自由は大変危ないものであります。言葉通りに、自分勝手にするわけであります。神様を信じるか、信じないのも自由でありますから、ですから危険であります。神様が人間創造をなさる時、一番悩んだのが自由を与えれることでありました。なぜならば、創造主も裏切る事もできることも自由であります。
もし、わたしたちにこの自由なく生きるならば、罪も犯さないまま生きることが可能であります。それは、ロボット
と同じようになります。そのように生きるならば神様に栄光を現わすことが出来るでしょうか?その喜びの表現も
機械のようにします。神様は決して人間が機械のように
栄光を現わすことを望んでいません。
神様は人間が心から喜びを現わすことを願っています。