自分の十字架を背負う
マタイ(마태)16:21-25
もはや四旬節(レント)も第四週目を迎えられました。
マタイ16:13節で主は弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。16節「シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのです。このようなことは現実にもありうる話です。ペトロがイエスの十字架の苦難と死を知らないように今のクリスチャンの中にもそのような人がいるでしょう。英語では「NO CROWN、 NO CROSS」と言う言葉があります。十字架のない福音は偽物です。イエス・キリストはユダヤの王として来られていません。万人の王、メシヤとして来られたのです。その当時のイスラエル人はイエスがローマの植民地から救い、自分たちが解放され、自由な民族になりたかったのです。だからペトロも16:22-23節に言っています。
22-23節「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」、そのようにペトロに言った後、
24節「それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」ここでイエスは自分を捨てるように言われています。自分が存在すると主に従うことが無理です。私たちが信仰生活する時に一番難しいことは
自分を捨てることです。サウル王がダビデを殺そうとした時、人間的にはいくらでも復讐することが出来る機会が何度もありました。しかし、ダビデは自分を捨てました。だから神様の裁きを待ちながら人生を過ごしました。自分を捨てることは自分の自我を捨てる意味です。
自分を捨てないと主の御心を満たすことが出来ません。自分を捨てないと神様の御心を行うことは不可のです。四旬節を迎えて自分を捨て十字架を背負う信仰者になりましょう。