使徒言行録4章13-22節
脅しと大胆
初めまして。同志社大学神学研究科で日本のキリスト教の歴史を学んでおります李元重と申します。
2008年3月から2017年7月まで、関西地方会の京都東山教会で牧師をしておりました。今日このように武庫川教会にお招きいただき光栄に存じまます。今日の聖書箇所では二つのグループの態度が見られます。
一つは議員、長老、律法学者などのイェルサレムの指導層(サンヘドリン)で、もう一つはペトロをはじめとするイエスの弟子たちです。イエスの復活後、聖霊が弟子たちに降臨され、弟子たちは活発な伝道活動を行いました。イエスの十字架の死の責任があったイェルサレムのサンヘドリンは、そのイエスの名が証され、信者が増えることに反発し、弟子たちを脅していたのです。しかし、弟子たちはそのような脅しに屈せず、大胆にイエスの名を宣べ伝えました。サンヘドリンの人々はそれが理解できませんでした。なぜならイエスの弟子たちにはあれだけ大胆になる何の根拠もなかったからです。大胆になること、換言すれば、自信を持つことは何かがあるからこそできるわけです。お金、知識、経験、権力など頼りになるような何かがある人が自信を持つのが自然的です。
しかし、サンヘドリンが見る限りでイエス弟子たちにはそういうものは一切なかったのです。ペトロらが大胆になるのは、彼らが何を持っていたからでしょう。それは、むしろ彼らが脅かされる理由ともなる「イエスの名」を持っていたからです。ここでキリスト者の大胆、自信感、自尊感はどこから来るべきかがわかります。
それはイエスを信じることから、イエスに従うことから、イエスの名によるものであります。
イエスの名によって大胆になるとはどのような意味があるのでしょうか。一、罪を捨てること、罪悪から離れることです。二、自分のためではなく神のため、イエスのため生きることです。生きる目的が変わることを意味します。三、イエスを証することです。自分を救ってくださった主イエスの名を宣べ伝えることです。
人は威嚇されたら、脅したものに従うことで威嚇から解放されようとします。しかし、イエス名を持っている人々は神に従うものです。この世のどのような脅しにも屈せず、主なる神に従い、イエスの名を大胆に証しできる武庫川教会になりますよう祈ります。