四旬節第五週 自分の十字架を担う信仰
マタイ書10:34-39
四旬節第五週になりました。
34-37節「「「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」35節で「敵対させる」という言葉の意味は
二つに分けるの意味です。つまり、律法主義や人本主義は
神様から離せることが目的であります。
人間と神様と隔てた理由は罪の結果であります。
人間は神様と敵対関係になったのは罪と不従順の結果であります。神様と敵対関係を平和の関係に変える秘訣は主イエス・キリストの十字架であります。
十字架は死を意味しています。そして、教会も象徴しています。イエス・キリストが背負われた十字架は奇跡でありました。その十字架は神の力であります。神の知恵でも
ありました。イエスの十字架の死は神様が私たちを集めて
くださり、会える方法であります。
イエスの十字架の死は自分のために生きた最初のアダムの罪に対する死であります。十字架を背負う人と背負わない
人は敵対関係になるでしょう。
コリント(第二)4:10-12節「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には 死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。」自分が神になりたいと思う悩みと葛藤の解決は
十字架であります。神様と平和となる秘訣は十字架であります。」イエス・キリストが来られたのは平和を与えるためであります。そして