コヘレトの言葉12:1-2
神の心に刻め
認知症と重い心臓病を抱えたオモニの介護を10年しました。そこでわかったことは、介護は介護される側の方が大変だということです。いくら年を取っても息子に、あるいは人に世話をされるのはつらく、むしろオモニは人の世話をしたかったのです。
介護を受けるということは忍耐と愛がなければできないのです。コヘレト12章3節以下には人が老いた
姿様子が手を意味し年を取ると手が震え、「力ある男」は足のことで弱くなる。「粉ひく女」とは歯のことで抜けて少なくなり、「窓から眺める女の目」はそのまま目がかすんでしまうこと。
「通りでは門が閉ざされ」は耳か唇で遠くなったり開かなくなったり、「粉ひく音」とはおしゃべりが減り、「人は高いところを恐れ、道にはおののきがある」は登り道や長い道を嫌がるということでしょう。
どれもこれも老いの現実です。
コヘレトの言葉は、このような人間の老いの現実を述べ、8節「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい」と言います。
しかしその一方で3章14節ではこうも言うのです。「神は人間が神を畏れ敬うように定められた。」
これが、コヘレトがこの文書をとおして主張する中心です。私たちもいつか、体が弱り、手が震え、足がかがんでしまう自分を見いだします。
親しい人との交わりも疎遠になり、多くのものを
失っていきます。しかし、そのような中でも残るものがあるのです。それは祈りです。
愛するすべての人のために、神の恵みを求める祈りをささげることができるのです。
しかし、好き勝手に人生を生きて、年老いて何もでき
なくなったときに、じゃあ、これから祈りでもしようかと、そんなことで祈りができるはずがありません。若い日から神を畏れ敬い、祈る生活をすることによって、何もできないと思えるような時にも祈ることができるのです。祈ることは信仰者に与えられた神さまからの最大の贈り物です。