苦しみの中でも
詩編38:2-5
ダビデは12節「疫病にかかったわたしを愛する者も
友も避けて立ち、わたしに近い者も、遠く離れて立ちます。」ダビデは罪がいかに恐ろしい結果をもたらしているのかを良く知りました。自分と主だけ知る罪。そのような
罪は誰でも持っているのです。
2-6節「主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。あなたの矢はわたしを射抜き御手はわたしを押さえつけています。
わたしの肉にはまともなところもありません。あなたが激しく憤られたからです。骨にも安らぎがありません。
わたしが過ちを犯したからです。
わたしの罪悪は頭を越えるほどになり耐え難い重荷となっています。負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます。
わたしが愚かな行いをしたからです。 わたしは身を屈め、深くうなだれ一日中、嘆きつつ歩きます。」ダビデは今後悔しているように見えます。
罪によって自分に帰って来る恐れ、その苦しみと耐えられない恥、このように罪は怖いものであります。
13節「わたしの命をねらう者は罠を仕掛けます。わたしに災いを望む者は欺こう、破滅させよう、と決めて一日中それを口にしています。」
私たちが罪を犯しますとサタンは喜び、踊ります。
7節「わたしは身を屈め、深くうなだれ、一日中、嘆きつつ歩きます。」、ダビデは罪を犯した後に、どれ程、悲しんでいたのかは分かります。さて、14-15節を見ますと
「わたしの耳は聞こえないかのように聞こうとしません。口は話せないかのように、開こうとしません。
わたしは聞くことのできない者、口に抗議する力もない者となりました。」人間は明らかに知らせたくない罪、それが明らかになりますとその結果は苦しみを受けるように
なります。このような問題はダビデだけではなく、私たちもこのような経験があります。ダビデの信仰は自分が犯した罪に対して悔い改めて、自分を救って下さった主をいつも仰ぎ見ることであります。