主の助けを求める
詩編68編:1-6(日2-7)
詩編68編はかなり長い詩に構成されています。
2-3節は神様は悪い人を裁く内容、4-5節は正しい人たちは神様を賛美する。6-7節は神様の国が来る時
弱い人、孤児などは祝福時間となる。8-19節は今までの
歴史を通して神様が加入したことがどんなものであるかに
ついて語っている。20-32節は今もなお神様は私たちの中で加入し、おさめていること。
33-35節は神様がこの世を完全におさめる時、全ての
民は神様をほめたたえることについて語っています。
20節「主をたたえよ/日々、わたしたちを担い、救われる神を。」ダビデの告白に注目しましょう。
神様が私たちの代わりに担うことであります。
この約束はイエス・キリストを通して成就された。マタイ11:28節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
この聖句に反対する人はいないと思います。
未だに自分の重荷が何であるかを知らない人がいるでしょうか?私たちにとっては重要な重荷は神様を信じ、神様を仰ぎ見て目覚めて神様の国を見る目が開かれる時、
しかし、それが出来ないことは重荷は違ってくるでしょう。ダビデが言われている担うことは私たちを死から救って
くださることであります。私たちが神の国が見える目が開かれると全ての重荷が脱ぎ去ることが出来ます。
神の国の目が開かれるとわがままに生きることが出来ない
のです。いくら辛くても周りがあざ笑っても、無視しても
神の国に目が開かれると神様の御言葉に従って行くのです。神の国に希望がない人は今の人生は不安になります。
未来が見えなくなります。いつ自分は回復していく時が
くるのか心配であります。コリント(第二)6:9-10節
「人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」