主を渇き求めます
詩編63編2-8(韓1-7)
2節「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを 捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは乾ききった大地のように衰え水のない地のように渇き果てています。」
ダビデはとっても難しい状況の中で神様に祈っているのです。しかし、神様の素晴らしい答えが4-8節の内容です。「あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。命のある限り、あなたをたたえ
手を高く上げ、御名によって祈ります。わたしの魂は満ち足りました乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたいわたしの口は賛美の声をあげます。床に就くときにも御名を唱えあなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。あなたは必ずわたしを助けてください ます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。」
私たちも試練の中で神様から祈りの返事を頂きますと
どんな試練や難しいことも耐えられることが出来ます。
神様の恵みを経験する人は試練を乗り越えることが出来ます。その恵みをダビデは聖所で受けたと告白しているのです。3節「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み/あなたの力と栄えを見ています。」
出エジプト25:22節「わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。」、出エジプト29:42節「これは代々にわたって、臨在の幕屋の入り口で主の御前にささぐべき日ごとの焼き尽くす献げ物である。わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。」聖所は神様に出会う場所です。」今日の礼拝の中で、ダビデが体験している
ように霊的な経験をしているでしょうか?
形式的な礼拝ではないでしょうか?
聖所で主に出会うことが約束されているからです。
2節でダビデのように主を渇き求めている祈りをしているのか? 主を探し求めている祈りになっているのか?
主を渇き求める祈りを捧げましょう。