礼拝の上に注ぐ喜び
詩編105:1-6
1-2節「主に感謝をささげて御名を呼べ。諸国の民に御業を示せ。主に向かって歌い、ほめ歌をうたい/驚くべき御業をことごとく歌え。」
今まで礼拝を捧げて来て、自分はどうのように感じていますか?礼拝が怠くなることはありませんか?礼拝に倦怠感は感じていませんか?讃美も歌いたくない、とにかく義務的な行いの礼拝ではありません。など問題がある場合は神様に出会ってないことであります。詩編を書いた人は本文では主を探し、求めることを勧めています。
3-4節「聖なる御名を誇りとせよ。主を求める人よ、心に喜びを抱き、 主を、主の御力を尋ね求め/常に御顔を求めよ。」礼拝は主を求める時間であることを語っています。礼拝はどれでも喜びと感謝が溢れるはずです。
それがないから礼拝はつまらないと言うのです。礼拝は見るために行うものではないのです。
礼拝を捧げる行為であります。礼拝の全ての対象は神様です。神様は見ておられますし、聞いておられます。
ですから、霊的な目が開かれ、主の臨在を感じ、礼拝の上に聖霊の注ぎを感じる礼拝が真の礼拝です。
そして、礼拝は癒される場所です。疲れた人間に神様は礼拝を通して、安息を与えるために礼拝を与えて下さいました。しかし、教会に来て疲れを感じることは問題があります。ローマ8:9節「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」、本当に主イエスを信じる人には「神の霊があなたがたの内に宿っている」ことを確信が出来きます。コリント(第一)5:13節「外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」主は聖霊として来られています。礼拝は主を仰ぎ見る時間であります。5節「主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を/主の口から出る裁きを心に留めよ。」
聖霊が注がれる礼拝になりましょう。