主が中心となる信仰
マタイ28:18-20
私たちが捧げる礼拝の中心は主イエス・キリストです。
主の御名によって集まれば、必ず聖霊の働きが行われます。礼拝は主に集中するじかんであります。説教者の影響などによって礼拝が神様を喜ばせるものにならなければなりません。説教者はあくまでも主の言葉を伝えれることだけであります。今、私たちが直面して問題に対して、どのような信仰を持っているのか?20節「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
これは主イエスからの約束であります。「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言う約束を本当に信じて信仰生活を行っているのか?主が共にいると語ってくださるにも関わらず、私たち信仰者はどうでしょうか?
不信仰的な言葉、不安、心配などがどれ程多くありますか?今、私たちに必要とするのは「いつもあなたがたと共にいる。」つまり、主が共にいること、現代的な表現をすれば24時間、主を見る、あるいは共に歩むことであります。例えば、熱心なキリスト者がある日病院の検査で癌が発見され、担当医者からあなたは癌を持っています。と言われましたら、どうようになるでしょうか?想像して見て下さい。20節の「いつもあなたがたと共にいる。」と言う言葉を信じて心配はなく生活が出来るのか? このようなことは本人が体験して見ないと何とも言えないと思います。
初代教会の信者たちは本当に20節の主の御言葉を信じて信仰生活を営みました。だからローマの厳しい迫害の中でも絶えず、祈りました。命をかけて信仰を守りました。初代教会の信者たちは論理的な信仰ではなく、実際、主の言葉を信じたのであります。主が中心になる人は19節の主の命令がありますが、この命令に従うことが出来ます。19節「 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、」初代教会の信者たちは主の命令に従ったのです。彼らは殉教さえも畏れず、主の命令に従いました。
主が共にする教会、共同体になりましょう。