(待降節第三週)
待ち望む者の祝福
箴言8:32-36
本日は待降節第三週を迎えられました。本文中の34節の終わりを見てください。"待つ者は幸いである"どこかでたくさん見たような印象を与える言葉です。もっと正確に言うと、聖書のどこにこのような文章がたくさん集まっています。新約聖書のマタイ5章の冒頭の山上の垂訓です。 5:3-8節「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。「嘆く者は幸いである、彼らが慰めを受けるであろう」こうなっています。
皆さん、34節の終わりと35節をつなげてそのような文章を作ってみてください。34-35節「わたしに聞き従う者、日々、わたしの扉をうかがい、戸口の柱を見守る者は、いかに幸いなことか。わたしを見いだす者は命を見いだし主に喜び迎えていただくことができる。待つ者は祝福されると言われましたが、聖書でよく待って祝福された人を探してみます。今日の若い人たちは待ちの法則を知らない。コンピューターもいかに速いか、古い機種は使おうとしない。」遅いから。昔はお正月、お盆をどれだけ待ちました。新しい服、新しい靴を履きたいから。キリスト教会には、クリスマスと夏休みの大人が聖書学校をどれだけ待ちましたか? たくさんのプレゼントをもらえるという期待で一年、半年も待ちます。まず、ハバクク2:1節ご覧下さい。「わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。」神様が答えられるまで待つと言われたのです。 皆さん、何か質問がありますか?
神様が答えをくださるまで待って下さい。祈っていることはありますか?神様が聞いてくださるまで
待ってください。神様が答えを与えてくださいます。