ハガルに近づく神様
創世記16:7
今日の本文の主人公ハガルは、その人生がとても辛くて、寂しい人生です。聖書にはハガルをエジプト人として紹介しているが、エジプトの女性がどのようにしてアブラハの家の召使いになったのか?そのことについて聖書は何も語っていません。本当に聖書にこのような事件を記録してもいいのだろうか? 主人の家の女に代わって子供を生むような苦しみを経験する、その中で女主人の虐待に耐えられず、荒野に逃げるようになったのです。アブラハムの家には多くの召使いがいる。女の召使いらが、いる中で女主人の子供を出産するように選ばれたのである。しかし、その女主人の虐待で荒野に捨てられた状態になってしまったのですから、どれほど辛くて大変でしょうか?荒野に捨てられたハガルはおそらくきばをならすような気分であった思います。
ハガルはため息をつきながら泣いたことでしょう。しかし、世の人々はハガルを探しもせず、記憶もしなかったが、私たちの神はそのハガルを捨てず、彼女に近づいたのである。会ってくださったのである。創世記16:7-8節を見ましょう。7-8節「主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、言った。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、ここで「出会って」という言葉がヘブライ語原語では「ムチャ」というが、この言葉が意味する出会うというのは、偶然に出会うという意味ではないのです。
つまり、この言葉は、積極的に探し回ることを意味しています。この言葉と同じ意味で創世記18:26節で「主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」ここで「いるならば」という言葉と原語が同じです。神様がソドム城を滅ぼそうとしている非常に深刻な状況である。
このような深刻な状況の中で探せばという言葉がぴったりである,偶然出会った状態ではないのです。神様は取るに足りない人生の涙を見る方である。ここで出会いは、神様が心を尽くして会ってくださるその出会いを意味する。