荒野の人生
マルコ書1:9-13
本文はイエス様は洗礼ヨハネより洗礼を受けた後、すぐに荒野に行き、サタンから試練を受けている場面です。
聖書で言われている荒野は2つの意味がありあす。
洗礼ヨハネが経験した一般的な荒野とイエス様が経験した荒野があります。荒野は試みと欠乏と苦痛がある場所、しかし、同時に神様の御言葉と主の臨在が伴う場所です。
創世記28:10節「「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。」、ヤコブが経験した荒野の姿
でした。絶望の中ヤコブは神様の臨在と御言葉を経験したのです。創世記28:16節「ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」、今までのヤコブの人生は神様により頼むことよりはむしろ自分の経験と知恵によって生きて来た人でした。荒野で辛い経験した人、荒野で孤独を経験した人、絶望的な夜を経験した人、しかし、ヤコブは逆転したのです。そもそもヤコブが経験した荒野は神様の臨在と御言葉でした。詩編95:8-11節「「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。 わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」イスラエル民は、荒野の期間中、神様に背き、神様を
怒らせて来たのです。ですからイスラエルの民において荒野は失敗の荒野でした。しかし、本文に書かれているイエス・キリストはイスラエル民が失敗した荒野に行き、サタンの誘惑を打ち破りました。
マルコ1:1節「神の子イエス・キリストの福音の初め。」勝利したイエス・キリスト、メシヤとして来られたイエス・キリストをマルコは強調したいですね。
マルコ1:12節「 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」ここで、それからと送り出したと言う言葉は状況が迫って来る、大変重要なことを強調したという意味です。