45-46節「割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、」
ペトロの話を聞いて、その場所で洗礼を行いました。
ところで聖書を見ますと聖霊も注がれたと書かれています。しかし、この意味は水の洗礼を受ける時には聖霊の注ぎもあると言うことです。コルネリウスの家族だけではなく、異邦人もその家に働く人も洗礼を受けていることでした。ここで聖霊が注がれると独特なしるしが現れることです。人間は自らは教会に足を運ぶのは難しいでしょうし、悟ることも出来ません。
私たちが毎週ことに教会に来られることはある意味では聖霊の導きがあると言うことです。
知らずに人を許すことが出来、祈りの中である人の顔が現れること、自ら奉仕をしたくなること、このような現象が起こるのです。そして、聖霊の体験が起こると異言や幻などの神秘的な出来ことが現れるのです。
従って、劣等感もなくなります。うつ病なども癒されるのです。46節にも書かれています。讃美をするだけでも癒され、励まされる場合もあります。そして、悪魔も退ける場合もあります。
47-48節「「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。」コルネリウスの信仰によって多くの魂が救われる場面でしょう。私たちはどうでしょうか。私たちの信仰によって、隣人、友人、親戚が救われる経験がありますか。何十年教会は通いますが、一人にも影響を与えられることない信仰者でしょうか。
そうであれば、コルネリウスのように祈り、弱い人や貧しい人を助ける信仰者になりましょう。聖霊の働きはのこように一人を用いて多くの人を救うことが出来るのです。聖霊の働きは一人のためにも、多くの人のためにも働きます。私たちも毎日、聖霊の働きを期待しながら信仰を持ちましょう。