1-2節「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」
教会になぜ、迫害があるのですか。真実に生きる信者になぜ、迫害があるのですか。神様はなぜ、神の民に
迫害や苦難を許しますか。それは受ける私たちには辛いですが、信仰者には必要であります。
3節「そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。」ユダヤ人に喜ばれるのを見たヘロデ王はさらにペトロを捕えようとしたのです。なぜならば、自分の政治を維持し、人気を持つためでありました。
ヘロデ王は神様より人間の人気がもっと大切であったと思います。私たちは人々に人気を得ようとすることではなく、神様に認められる信仰者になりませんか。
4-5節「ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」いよいよヘロデ王は自分の人気のためにペトロを捕えます。その話を聞いた初代教会の信者たちは逃げるのではなく、執り成し祈りをしたと聖書は書かれています。普通の祈りではなく、熱心な祈りが神様に奉げられたと言うのです。
私たちにこのような事故は起るとどうされますか。おそらく弁護士に相談するでしょう。あるいは権力者に連絡して刑務所から出す方法を相談するでしょう。教会にはいつ奇跡が起こるのでしょうか。
執り成し祈りをささげる時です。形式的な祈りではなく、使徒教会の兄弟姉妹と同じように熱心に祈る教会、信者になりませんか。教会がなぜ、一つになりませんか。それは執り成し祈りが弱いからです。韓国の教会がこのように成長した秘訣はやはり執り成し祈りでありましょう。絶えず祈る教会、信者になりましょう。これからより一層祈りに専念しましょう。