1-2節「ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。」
パウロやバルナバが第一伝道旅行からアンティオキアに帰て来たら律法主義の伝統を持った人々はユダからアンティオキア教会に来て論争があったと言うことです。
彼らの論争は伝統的な信仰に対する葛藤でした。
即ち、教理的な問題でありましょう。キリスト教の歴史を見ますと聖霊の働きが起こりますとそこには必ず教理的な葛藤が生じました。サタンは聖霊の働き、教会のリバイバルがあるところには教理的な問題で混乱させるのです。
大事ではなく、わずかなことが本当に重要な神様の働きを壊してしまうようなことがよくあります。本文の論争の重点は割礼の問題であります。もちろん、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければなりません。」しかし、律法は大変重要でありましょう。したがって、この律法よりもっと重要なことは神の恵みであります。なぜ、彼らは割礼を必ず受けなえればならないと思ったでしょうか。創世記17:9-14節「神はまた、アブラハムに言われた。「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」 宗教は危機は形式のみ残ることです。罪を犯しても教会に行けばなんとかなるのだと思うことです。礼拝さえ守れば大丈夫だと教えることも危険ですが、それを真理であると思うことは本当に危険でありましょう。