棕櫚主日・苦難週間
本日は棕櫚主日であり、今週を苦難週間と守ります。
17節「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。」、ここで十字架のことを考えてみましょう。①その当時の
罪人に処刑する時に一番罪が重い囚人を十字架につけるのです。主イエスご自身は何の罪もないにも関わらず、十字架を背負いました。あの十字架はあまりにも重くてイエス様は途中で何度も倒れ、結局、キレネ人のシモンが代わりに背負って行くようなこともありました。キレネ人のシモンはそのことによって後には主イエスを信じ、救われて、教会に役に立つ者となりました。ローマ16:13節「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」、キレネ人のシモンは無理やりに十字架を背負いましたが、その家族が救われる祝福の結果となりました。
良いことをそれは無理やりでもするべきであります。
列王記下5章で出て来る「アラム王の軍の司令官であるナアマン」はエリシャがヨルダン川に行って七度身を洗いなさいと言った時、したくない気持ちでしたが、無理やりに言う通りにした結果、体は癒されたのです。さて、18節「そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。」
イエスの十字架をを真ん中に立てたことはローマ人やユダヤ人の立場から見ると①一番罪が重い人であることを現す為であります。②ユダヤ人の王を囚人たちの真ん中に立てることを彼らが意図的に嘲ようとすることです。
そして、あのゴルゴタの丘の3つの十字架は、右の強盗は悔い改めて救われました。ですから今日、キリストを信じて救われた人の象徴であります。左の強盗は最後まで主を信じなく、救わられていない人の象徴であります。そして、主イエスの十字架は全人類を救われた神の愛を象徴しています。
19節「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。」
イエス様の十字架の上には「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」
と書いたのです。これは罪の理由でもない、処刑するような理由でもないのに、主イエスを処刑しました。このように主は人間の救いのためにご自身が自ら十字架を背負いました。私たちは苦難週間だけではなく、神の国に入る日まで十字架を覚えて行く信仰が必要であります。