四旬節第4週
8節「リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。」
前回、パウロとバルナバはイコニオンで石で投げつけよとされました。福音の為にはこのような危険な場面に合うこともあります。そういうことで二人はリストラに場所を変えるのです。
真のキリスト者はどのような状況に置かれても伝道する信仰が必要であると言うことです。あきらめずに前進して行くのです。9-10節「この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。」ここでパウロから3つのことを学びます。パウロは説教の途中に足の不自由な男が座っているのが見えたのです。即ち目と目が合いました。
説教を聞く時の姿勢を強調しています。注目をすることは神の御業の始まりです。即ち、奇跡の始まりです。神様はいつも私たちを注目されるお方です。すぐに何か変わりがなくてもあきらめないで下さい。パウロもバルナバも足の不自由な男を見つめたのでいやされる奇跡を経験したのです。目と目が合う時、奇跡が起こりました。皆様はいつも神様の目を見つめているでしょうか。 世のものに目を見つめているでしょうか。
次は救われるような信仰がパウロの目には見えたと言うことです。パウロの目には救われるような信仰が見えました。
私たちも伝道する時に、このような経験をする時があると思います。福音を聞く耳がある人と聞く耳を持ってない人がいるのです。キリスト教は信仰によって救われるのです。行いによって救われるのではありません。同じように説教を聞く耳を持つことは大変重要であります。ローマ10:17節「 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」信仰が漠然に出て来るものではありません。
信仰は不可能から可能に変えられるのです。出来ないことを出来るようにさせるのです。教会生活は長いですが、信仰がない人がいれば、教会生活は短いですが、信仰がある人がいます。おそらく、足の不自由な男はパウロの説教が短く感じたと思います、御言葉の種が心に入ると人が変わります。
多くの人々は聖書と神の力を理論的に考えます。
聖霊を受けますと神の力が伴います。