先週の引き続きですが、礼拝において喜びも感動も感じなく教会に来られることは本当に辛いと思います。
礼拝は主に出会う時間でもあります。礼拝時間は主の御声を聞く時間でもありましょう。同じ教会で礼拝をささげても、その反応は様々であるでしょう。
しかし、大切なことは霊的な礼拝を奉げているのかによって答えは違います。まるで数学の公式を解かす時に
その方式によって答えは様々であります。
イザヤが祭壇を修復したように、私たちの礼拝の祭壇はどうでしょうか。皆様のご家庭の礼拝祭壇はどうでしょうか。皆様の個人の祈りの祭壇はどうでしょうか。
礼拝の祭壇が修復されますと神様の働きが火のごとく働きます。例え、礼拝が劇であると考えるならば、俳優があり、観客があります。さて、俳優はどなたであり、観客はどなたでありますか。信者の皆さまは皆が俳優であります。そして観客は一人、神様です。ですから私たちは礼拝を見に行くと言う表現より、礼拝を捧げると言う表現が正しいです。見るのは神様は一人ですから、旧約的に考えますと捧げものを備えて、捧げる人は神の民であります。劇や映画の俳優が撮影の時に隣人と話しますか。携帯を取ったり、検索するような行動をしますか。
居眠りが出来ないと思います。霊的な礼拝を神様は今年も期待しておられます。日本ではお葬式や結婚式に行く時には礼服を着用して行きます。しかし、礼拝のために
私たちはどのようにして準備して礼拝に臨んでおられていますか。真の神であると言いながら、私たちはあまりにも礼拝をささげる信徒としての心構えが弱いではないでしょうか。今年はこのような礼拝のために祭壇を修復して礼拝を捧げる教会・信徒なりませんか。
ある人は礼拝を説教を聞くために来る人もいます。ですから副牧師や伝道師が説教する日は教会に来ないのです。説教を誰がするかによって来る人は礼拝を捧げるために来る信者ではありません。ある人は人を会うために来られる人もいます。礼拝は人の人生を変える力があります。礼拝は人の思想や考えも変えるのです。
神様を喜ばれる礼拝を捧げる年になりましょう。
聖霊の体験をして行く年になりませんか。