(復活節)
婦人よなぜ泣いているのか?
ヨハネ書20:11-18
私たちは復活節を迎えられました。
15-16節をご覧ください。「イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。」
イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」という文書はイエスの最初の質問は天使たちと同じ質問でした。もしマグダラのマリアが冷静な心で生前の主の言葉を覚えていたら、二度目の質問を受けた時、その質問の意味を理解することができたかもしれないが、残念なことに、彼女の心は心配と焦り、そしてパニックと悲しみだけに捕らわれていた。
マリアは生きている者、すなわち復活した主を待つのが正しいにもかかわらず、まだ死体を探していたのである。
マグダラのマリアは、主の遺体を見つけなければならないという願望が強すぎて、復活した主をマリアは、園丁だと思って勘違いし、彼女の心は焦りすぎて「誰の遺体がなくなったのか」を明らかにすることなく、もし移したのであれば教えてほしいと言っているのです。
16節でイエス様は復活した主は、たった一言の言葉で自分の正体を示し、マリアの隠された目を開いてくれた。
マリアは、主が生前に自分を呼んでいた声とイントネーションを思い出し、今、自分の名前を呼んでいるのは主であることを知ったのである。優しい声でマリアを呼ぶこの劇的なシーンはとても感動的である。17節「イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
復活の主に出会ったマリアは霊的な目が開かれたように私たちの目も開かれる復活節になりましょう。