( 特別伝道集会 四旬節第五週)
あなたの名は何というか(人間回復の物語り)
ルカ書8:26ー39
今朝の聖書の個所がそのことを明確に教えていると思います。そのことを今朝ご一緒に考えたいと思います。
(Ⅰ)自分自身を見失った人間
1.暗黒の地に住む人
今日の聖書の箇所は二つの舞台から成り立っています。第一の舞台に登場するのは“異様な人物”です。それは悪霊につかれた人です。この人は、聖書によると、「衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていました」(27節)。振る舞いも狂暴で、「鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎる」(29節)ほどでした。マルコによる福音書の同じような記事では「昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」(5:5)とあります。
聖書では、悪霊とはサタン・悪魔の支配のもとにある霊で、神から人々を切り離し、神から遣わされた救い主イエス・キリストの働きを妨害するのが仕事でした。ですから、聖書がこの男において示そうとしていることは神を認めない世界に生きる人間の姿です。ほとんどグロテスクといっても良いほどの姿です。神を神として認めようとしない世界に生きる私たちもその本質はグロテスクだと聖書は言いたいのです。
2.神を認めない世界生きる人間のグロテスクな姿
グロテスクな姿…?皆さんの中には反発を感じる方も
おられることでしょう。その方々に、一つの聖書の個所を示しておきたいと思います。ヨハネの黙示録3章17節です。「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」(黙3:17)
人間はキリストの十字架の愛に生かされるとき、静かで穏やかで本当に人間らしい生き方が生まれるのです。この意味でキリスト教信仰とは「しらふで生きること、本来の人間になる」ことを意味しているのです。