(四旬節第三週)
ラザロ、出て来なさい
ヨハネ書 11:39-44
私たちは四旬節三週目を迎え、今日の本日の本文が与える御言葉が死に関する問題ですが、もしこの場に死に関する問題で大変な方がいらっしゃいましたら、本日の本文で力を得て、希望を持って進んでいただきたいと思います。
私たちが聖書を読みながら、イエス様が生きておられるなら、なぜこのようなことが起こらなければならないのか?マリア、マルダ、ラザロが理解できないように、主が私たちを愛しておられるのに。他の人が見ても、主が愛している人たちになぜこんなことが起こるのでしょうか?
36-37節「ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
私たちもこの言葉のように同じことを言うかもしれません。一般的な死の問題は、他人を通して経験されること、私たち自身を通して経験することになります。
21-22節「マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」今日の本文で死は何を意味するのでしょうか?イエス様はこの死を通して何を語りたいのでしょうか?イエス様のお言葉に、マルタとマリアは理解できず、別の言葉を言います。23-24節「イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。」今、マルタの心はとても不愉快な心であることがよく分かります。結局、マルダは自分がイエス様を信じ、復活も信じているのに、なぜ早く来なかったのですか?ということです。イエス様がもう少し早く来てくれれば、兄が死ななかったということです。マルタの言葉には恨みがとても含まれています。私たちには、死を超越する信仰もなく、その死に打ち勝つ信仰もありません。
復活の信仰を持ったキリスト者になりましょう。