(四旬節第2週)
主の苦しみ
マタイ書 26:36ー46
私たちは四旬節4週目を迎え、主が受けた苦しみを黙想したいと思います。ヨブ記5章7節「それなのに、人間は生まれれば必ず苦しむ。火花が必ず上に向かって飛ぶように。」しかし、多くの苦難がすべて同じ種類の苦難ではありません。絶対多数の苦難は、人間の罪と過ちによってもたらされた苦難です。アダムとエバが神様に反逆し、罪を犯したことによって直接間接的にもたらされた苦難なのです。
しかし、イエス様が受けた苦難は決して自分による苦難ではありませんでした。イエス様が受けられた苦難は、イエス様が罪を犯したから、イエス様が悪いから受けた苦難ではありませんでした。それにもかかわらず、イエス様は極限的な苦難を受けられました。イエス様が受けられた苦難は、堕落した人類をその罪悪と呪いと死から救い出そうと志願して受けられた代償的な苦難でした。それは、人間を至極愛し、人間が受けるべき
苦難を主が志願して代わりに背負われたのです。
だからこそ、イエス様の苦難は今日、許しと救いと祝福と治療を私たちにもたらすことができる動機になったのです。今日、私たちはこの時間にイエス様が私たちのために受けた苦難を深く考えてみたいと思います。
4福音書を記録した著者ごとに少しずつ内容が異なります。第一に、イエス様が受けた苦難の中で最も深い苦難が霊的な苦難でした。イエス様はその魂が神様と分かれたことが一度もありませんでした。万世前にイエス様は神様と一緒におられ、神様との熱い愛と交わりが途切れることはありませんでした。しかし、イエス様は私たちの罪を代わりに背負われた時、神様に見捨てられることになりました。
聖書は、コリント(Ⅱ)5章21節にこう書いてあります。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」主イエス様がゲッセマネの園で祈る時、主は苦い杯を出されました。
その杯をみると、その杯の中にはアダムとエバの原罪から始まり、その子孫の罪がいっぱい入っています。
四旬節期間は主の苦しみを共に覚える時間であります。