誰が強盗に襲われた人の隣人でしょうか?
ルカ(눅) 10:25-37
本日、私たちを信仰の重要な主題で導いている人は言うまでもなく、ある律法の専門家です。
ある日、その律法の専門家は「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と
彼は今、「永遠の命」(eternal life)について尋ねているのです。しかし、その質問に対して、このように
答えています。「「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」と質問をしているのです。その律法の専門家は戸惑うせず、申命記6:5節の御言葉をで「「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』と答えました。しかし、イエスは答えを聞いて、言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
ここで今日の話はより進んで行きます。その律法の専門家は自分が正しい人であることを正当化を明らかにしたくて、もう一つの質問をします。
「では、わたしの隣人とはだれですか」 と言った。
ここで彼が持っている隣人とはだれですか?
彼が考えている隣人とは、神様の子と認められている
ユダヤ人に制限されているのです。「私の隣人」は誰か?についてユダヤ人が持っている隣人に対する接近であります。彼らは絶対に選民意識から外れません。
さて、律法の専門家の質問を聞き、イエス様のお答えは全然違う観点から隣人について話をされているのです。それは良く知られている「良きサマリア人の話」
であります。この話を終えて、イエス様の質問に注目しましょう。36節「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」イエス様の隣人に対する接近方法は違う方向
であります。この質問は彼が言った「誰が私の隣人」でしょうか?とは違います。