強さと弱さ
ローマ15:1-13
パウロは14章に続いて教会の中での人間関係について15章から説明しています。1節「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」ここではパウロは私たちは「強い者」であると言われています。
この表現は自慢や高ぶっているからではありません。
しかし、この表現は責任感のことであります。
ここでパウロは強い者は、強くない者の弱さを担うべきであると言われています。
エフェソ3:16節「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、」、テモテ(第二)2:1節「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。」
しかし、ここで言われている「強い者」はどういう
人でしょうか?言うまでもなく、弱い人を受容し、包容力を持つている人であります。本文の1-2節「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」、パウロが言っている「強い者」と言うのは律法に縛られているのではなく、真理の中で自由を得られる
人、即ち、いくら信仰が強い人でも、弱い人を裁いてはいけないことです。むしろ弱い人を抱き、包容しなければならないことでありましょう。
1節で「担う」と言う言葉の原語は「荷物を運ぶ」「荷物を担う」と言う意味があります。
使徒3:1-2節「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。」ここでも
「運ばれ」と言う言葉の原語も同じであります。