ゼカリヤ13:1-6
罪を清める泉
1節「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。」私が悔い改める嘆きの門が開かれるのは、1節のその日の意味であります。
嘆きの叫びが起こる日には、私たちの中に泉が湧き出るのです。どんな泉かというと、汚れた良心を清く洗うことができる泉が開かれるということであります。ここできれいに洗うという言葉のギリシャ語は「カタルシス」であります。清めるという訳をするのです。私たちが泣き叫ぶので、私たちが泉できれいに洗われるのであります。本来、「カタルシス」という原語は、泣いた後、心が清められるという意味であります。
しかし、本文で言うカタルシスというこの言葉は、そのようなレベルの言葉ではないのです。単純に心理的な効果を意味することもあるが、このような心理的な効果だけを期待するのではなく、真に私たちの汚れた心を浄化することであります。 ではなく、真に私たちの汚れた良心をきれいに清浄化することであります。霊的にこのような幅と深さは、この新しい像では真似できないものであります。
私の良心が神様の前できれいに洗われ、本来の状態に戻るのであります。古いものは過ぎ去り、見よ、新しいものになったのです。新しいものとなる感激の救いが実が回復する、このようなことが起こるのであります。
私たちがどのような汚れからカタルシス、すなわち洗い流されるのか?
2節「その日が来る、と万軍の主は言われる。わたしは数々の偶像の名をこの地から取り除く。その名が再び唱えられることはない。また預言者たちをも、汚れた霊をも、わたしはこの地から追い払う。」つまり、偶像から清い洗うべきです。私は創造主の神であり、唯一の神であるにもかかわらず、他の多くの神に仕えすぎている。
神は今、あなたがたの記憶にないように、それをすべて断ち切ると言われます。
汚れた良心をきれいに洗い流すと言われます。