ゼカリヤ書10:1-7
神様の約束
自分自身は厳しい状態として現実という地点に立っているが、神の約束は遠く離れた地点にあるのであります。
なぜ私たちはこのような敗北意識で神の約束から遠ざかってしまったのでしょうか? なぜこうなるのでしょうか。なぜそうなるのか、その理由を本文は教えてくれています。
1.虚しいもの、虚しいものを求めるからである。2節「テラフィムは空虚なことを語り/占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。その慰めは空しい。それゆえ、人々は羊のようにさまよい/羊飼いがいないので苦しむ。」ここで言うドラビームは、日本でよく見かけるのは、カバンに入れて交通安全などをお願いするような道具です。交通安全などを祈願して持ち歩くような道具です。このドラビムは、当時の中東地方では、親の遺産を受け継ぐ者が持っていたそうです。このドラビムがヤコブの家にもありました。
創世記31:19節「そのとき、ラバンは羊の毛を刈りに出かけていたので、ラケルは父の家の守り神の像を盗んだ。」アブラハムの時代からヨシア王まで、まだそのドラビームを持っていたということであります。
千年以上経ってもドラビムを持ち歩く当時の人々であります。私たちがこのように虚しいものであるにもかかわらず,このような偶像を求めます。絶対に成就しないにもかかわらず、このようなものを求めようとするのが人々の心理であります。 このようなものを所有しているからこそ、神と私たちの関係が疎遠になるのです。
たぶん,このようなことを言うと,私たちはそんなものとは無関係だと言うだろう。
今日、私たちは教会に通い、神を信じていると言いながら、子供が結婚するときに、相性を見て、四柱推命を見て四柱推命を見て,そして結婚の日程を決めるのも,そういう迷信的な人たちを訪ねて決めています。
そして、私たちの名前を命名所に名前をつける人もいます。
信仰のすき間がないように祈り求めてください。