御名が崇められますように(2)
マタイ(마태) 6:9
神様の御名が崇められることは神様の子である私たちが
真実に主を信じて、真の主を愛すること、神様の御言葉の
通りに従うことによって清められるのです。
信徒の中には洗礼を誰に受けたのか? この問題が大切に
考えている人もいます。このようなことを大事にする人もいます。洗礼は誰から受けたかということより、父、子、聖霊の御名により受けることが大切であります。
洗礼というのは神様から印を押される行為でもあります。
日常生活の中で誰に出会い、誰と話をすることの中でも
忘れてならないことは、「主の御名が崇められる」と言うことです。主を信じていても人々から評判が悪くなり
ますと「主の御名が崇められる」ということが出来なく
なります。自分が少し損であっても信徒は悔しいと思って
はいけません。それは「主の御名が崇められる」という
ことであるからです。
詩編20:7節「今、わたしは知った主は油注がれた方に
勝利を授け聖なる天から彼に答えて右の御手による救いの力を示されることを。」ダビデ王はこのように「「主の御名が崇められる」ということを徹底的に守った王でした。
ですから私たちの祈りの中でも「主の御名が崇められる」
ということは忘れてはいけません。
箴言30:7-9節「二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。 むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせずわたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り主など何者か、と言うおそれがあります。
貧しければ、盗みを働きわたしの神の御名を汚しかねません。」私たちの日常生活を通して「「主の御名が崇められる」ように、私たちの家庭を通して「「主の御名が崇められる」、私たちの教会を通して「「主の御名が崇められる」と祈って行こうではありませんか?
堂 会 長 梁栄友 牧師
名誉 長老 林秉魯 朱瞮中
長 老 姜遠基 林英宰 梁昌熙 朱京中 趙舜元