現実より御言葉
ダニエル書1:1-7
ダニエルは若いごろバビロンに捕虜として連れされて、
様々なく苦難を乗り越えて総理大臣までなられた人です。
1節「ユダの王ヨヤキムが即位して三年目のことであった。バビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、エルサレムを包囲した。」、この箇所を読みますとその当時の状況
がよく表現されています。大変危機感を感じます。
ヨヤキム王は宗教改革したヨシヤ王の息子です。(列王下
22ー23:30)、列王下23:25節「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。」、私たちにはこのような態度があるのでしょうか?
エレミヤ36:23節「ユディが三、四欄読み終わるごとに、王は巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、ついに、巻物をすべて燃やしてしまった。」なぜ、ヨヤキム王はこのような行動しましたか?24節「ヨシヤはまた口寄せ、霊媒、テラフィム、偶像、ユダの地とエルサレムに見られる憎むべきものを一掃した。こうして彼は祭司ヒルキヤが主の神殿で見つけた書に記されている律法の言葉を実行した。」、私たちも神様の御声が聞こえていても御言葉よりむしろ現実に関心が多くなっていませんか?
私たちは今、どんなことに影響を受けていますか?
聖書を何回読んでいたのか?説教をどのぐらい聞いたのか?それより大事なことはヨシヤのような態度、即ち「
彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。」ダニエルを初め、3人友達の名前を変える意図は
彼らが持っている信仰を捨て、バビロンの神におじきを
させるためです。即ち、アイデンティティーをなくすための目的であったのです。
今の時代は様々な機会が信仰者のアイデンティティーを
なくそうとします。8節「ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し、自分を汚すようなことはさせないでほしいと侍従長に願い出た。」
ダニエルの信仰は現実を見ることよりは御言葉に従うことでありました。私たちもこの信仰を手本にして行きましょう。
堂 会 長 梁栄友 牧師
名誉 長老 林秉魯 朱瞮中
長 老 姜遠基 林英宰 梁昌熙 朱京中 趙舜元