サムエル下6:12-15
感動が消え去る
14節「主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。」ここで、「力のかぎり」の原語では力を尽くしてとなっています。つまり、ダビデ王は人の顔を見るのではなく、すなおに子どものように踊りました。私たちはこのように神様のことで嬉しくて踊ったことが
ありますか?15節「ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。」、即ちこれは、現在的に考えますと毎週の礼拝を
喜びと感謝の中で捧げているのか?
一週間の疲れや心が固くなっている状況から解放され、
神様のみを褒めたたえ、讃美を捧げることです。
礼拝を通して、この喜びの味を経験した方はどこに行かれても問題や試練を乗り越えることが出来ます。
本日の聖書から教えられることはまず、感嘆の声を回復する。イスラエルの民にとっては神様の臨在の象徴です。
長い間に神の契約箱は放置され、神の神殿には置かれていなかったのです。当然、多くの人々は神の契約箱がダビデの城に運ばれることを見て、踊り、喜びをもって讃美を
捧げている姿でした。しかし、ミカルはどうでしょうか
16節「主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ。」ここで「窓からこれを見下ろしていた」ということは人々から隔離していることが明らかにされます。教会でも同じ礼拝時間に、同じ状況なのに隔離されている状態で礼拝を受ける人には喜びや感動、感嘆の体験がないと思います。私たちは毎週の礼拝にダビデのようにすなおに心の扉を開けて、礼拝を受けましょう。ミカルはその結果、どうなりましたか?16節の最後のところに「心の内にさげすんだ」となっています。私たちには踊りたい気持ちとさげすむ気持ちのどちらがが多いのでしょうか?
詩編8::1節「主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます」このように自然を見て感動したことがどのぐらいあったのしょうか?
感動が消えない礼拝、感動が消えない自分になりましょう
堂 会 長 梁栄友 牧師
名誉 長老 林秉魯 朱瞮中
長 老 姜遠基 林英宰 梁昌熙 朱京中 趙舜元