第三週 待降節
愛の主を待ち望む季節
ヨハネ第一手紙 4:7-15
第三週の待降節を迎えました。愛の主を待ち望む季節として、時間を過ごしています。いよいよ来週は聖誕節となります。愛に飢え乾いた世、無関心に満ちている世、現代の
病は重い皮膚病、癌などではなく、本当に愛してくれる人や心から世話する人、孤独に陥ている人に対する無関心が
一番恐ろしい病ではないでしょうか?
ガラテヤ5:13節「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」、罪が赦され、救われた人である証拠はやはり愛にとって、人に仕えることであるとパウロが勧めています。
神様の独り子イエスは神の愛のために仕えました。
人類の罪のために十字架を背負い、死なれ、3日には復活
されたのです。ですから、私たちが十字架の愛を知り、
悟る信者であれば、主の愛に仕えるべきです。
笑うことは愛がなくても笑えます。しかし、涙を流すことは愛がなければ、涙は出ません。涙の量は愛の量であると
言われました。その人から愛されたことの証拠でもありましょう。私たちがこのように神を信じることや神の国の民に選ばれたことも主の愛の証拠であります。
11節「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」、神の愛には条件がありません。
無条件であります。真の愛には条件が現れません。
主の十字架の愛は無条件なのです。
私たちに何の条件もつけないで十字架を背負われました。
ですからその十字架を信ずる者、救われます。
神様はなぜ、罪人である私たちのこのように無条件で愛して下さったの神様の本質が愛であるからです。
神がこの世を愛されたのは人間を愛し、救い、罪を赦すためでありましょう。ヨハネ3:16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
ヨハネ第一手紙4:19節「 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。