優先順位
ルカ11:37-41
37ー38節「イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った」、おそらくイスラエルは水が豊かな国ではないし、
イエスは一定の居住がなく、毎日居住する場所が違うため、手洗いする習慣があまりなかったと思います。
ユダヤ人は手を洗うことが衛生的なことではなく、宗教的なことでしたので、イエス様は宗教的ではないので、
必ず、手を洗わなければないないことではなかったのです。しかし、手を洗うことだけで、罪の赦しの問題、救いの
問題などが解決されることではないのです。
ファリサイ派や律法学者たちは律法を守ることが救いであり、その人の信仰であると信じていたのです。
39-41節「主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。
ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」
イエス様はファリサイ派たちに外側だけを清くするのではなく、内側も清くする必要があると言われています。
それはどういう意味でしょうか?
信仰者は見えるところも大事ですが、見えない部分の信仰
がもっと大事であることを強調しています。
神の国を信ずる人は悪口や暴言を使いません。しかし、表面状が敬虔な人に見えたとしても語る言葉が、世の人と
同じであるならば、いくら手を清くしても意味があるので
でしょうか。教会は聖なる場所であると言われています。しかし、教会に連なる信徒はどうでしょうか?
信仰者が聖なる者になるのはイエスの血潮によらなければならないのです。信仰の優先順位を考える聖句であります.何が先に行うことかをわきまえるようになりましょう。