受難週間・棕梠主日
救えない救い主
マタイ27:35-44
主イエスはゼカリヤの預言のように「雌ろばの子であるろば」に乗ってエルサレムに入城されました(ゼカ9:9)。群衆は上着を道に敷き、なつめやしの枝をもってイエスを迎えて叫びます。
「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように」(マタ21:9)。
多くの奇跡を起こしたイエスに対して群衆は特別な期待を抱いていました。「ダビデの子」、
「主の名によって来られる方」などの表現はメシア(救い主)を表すものです。彼らはイエスがメシアかも知れないという期待を持っていました。群衆が期待していたメシアの姿は、ダビデのような強い王だったのでしょう。なつめの木の枝は「勝利」を象徴するものです。群衆は戦争での勝利を重ね、イスラエルをローマの支配から解放し、自らを再び強大国としてくれる「勝利の王としてのメシア」を期待していたと思います。
しかし粗末な子ロバに乗って入城するイエスの姿はその期待を完全に裏切っています。
華やかなエルサレム入城から間もなくしてイエスは群衆から見捨てられ十字架につけられます。
人々に見捨てられたメシアは罵られます。
「神の子なら、自分を救ってみろ」、「他人は救ったのに、自分は救えない」(マタ27:40,42)。これらの侮辱にイエスは何も答えませんでした。背中の積荷を黙々と運ぶ粗末なろばのように
イエスは黙って罵られ続けました。自分を救えない救い主の姿です。しかし自分を救わないこと、罵られ血を流し死ぬことこそが救い主としての
使命でありました。自分を救「え」ないのではなく、救「わ」ないことによって、私たちの救い主となってくださった主イエス。その苦しみの道を黙想し、イエスに従う者として歩んでいきたいものです。