より安全な場所?
詩編11:1-7
詩編11編はダビデが大変苦しい状況の中で神様に祈った祈りであります。3節「世の秩序が覆っているのに主に従う人に何ができようか」と。」ここで「世の秩序が覆っている」ということは、自分の生活が崩れていくようなこと、つまり、病院から重大な病気である診断を受けたことや、あるいは愛する人を失われたこと、職場から退職になったこと、などを意味します。2節「見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。」、もしかしたら、誰が自分に弓を張ることになりましたらどうなりますか?
ダビデはそのような状況に置かれたならばより安全な場所
は神様であることを語っています。
4-7節「主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡しそのまぶたは人の子らを調べる。主は、主に従う人と逆らう者を調べ不法を愛する者を憎み逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り燃える硫黄をその杯に注がれる。主は正しくいまし、恵みの業を愛し御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。」
ここでもダビデは3節のように崩れている状況からどのように神様をほめたたえられるのか?1節「主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか「鳥のように山へ逃れよ。」
ダビデに周りの人々は山へ逃れるように勧めています。
人生の中ではこの道が正しいのか?正しくないのか?
人生の中で困り果てる状況もあります。
コロナ禍中で私たちはダビデのように神様の声が聞こえて
くるのか?何にも見えない、何も聞こえない状況ではない
でしょうか?ダビデの信仰はどんなに厳しい状況の中で
あっても神様を信じ、神様をほめたたえ、神様に感謝して
確信をもって歩んで来ました。しかし、ダビデがこのような信仰を持つことが出来たことは生まれながらでもありません。祈りについて答えについて確信がない人が多くあります。ダビデの信仰は知識的なものではなく、実際に信仰を生活において経験を重ねて行くことにより信仰は深まります。神様が私たちに人生の避け所であります。より一番安全な避け所であります。