正しい人は恐れがない
詩編 17:6-12
1-5節「主よ、正しい訴えを聞きわたしの叫びに 耳を傾け祈りに耳を向けてください。わたしの唇に欺きはありません。御前からわたしのために裁きを送り出しあなた御自身の目をもって公平に御覧ください。
あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね火をもってわたしを試されますが汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。わたしの口は人の習いに従うことなくあなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けてあなたの道をたどり一歩一歩、揺らぐことなく進みます。」、ダビデは自分の正しい訴えを聞いて下さいと祈って¥います。人間は神様を知らない時には罪の報酬がどれほ怖いのかを知らないでしょう。聖書は本当に主を信じることが出来る人は罪を侵さないと言われていま。
へブライ書12:14節「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」聖書は救われた信者であれば、罪を侵さず、生きるのが正常的であると言われています。多くの人は人間が罪を侵さないで生きるのは難しいことであると言うのです。
例えば、猛毒でると書かれている紙を見ながらそのものを
飲めますか?それを知っていながら飲む人は誰もいない と思います。9-14節「あなたに逆らう者がわたしを虐げ/貪欲な敵がわたしを包囲しています。
彼らは自分の肥え太った心のとりことなり/口々に傲慢なことを言いま。わたしに攻め寄せ、わたしを包囲し/地に打ち倒そうとねらっています。そのさまは獲物を求めてあえぐ獅子/待ち伏せる若い獅子のようです。主よ、立ち上がってください。御顔を向けて彼らに迫り、屈服させてください。あなたの剣をもって逆らう者を撃ち/わたしの魂を助け出してください。主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち/命ある者の中から彼らの分を絶ってください。しかし、御もとに隠れる人には/豊かに食べ物をお与えください。子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。」罪に対して関心を持ていない人にダビデは語っているのです。特に10節で言われているように罪に意識なく侵している人はこの世の欲に満ちている人であると言うのです。言葉に注意して語らない人は高慢な人であると
パウルは言っています。