主の幕屋に宿る信仰
詩編 15:1-5
1節「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り聖なる山に住むことができるのでしょうか。」
ここで「幕屋」は文字通りにはエルサレム神殿を指して
います。しかし、この神殿の中に入り、いけにえを捧げる
人の資格は誰なのか?そのように問われているのが1節
であります。その当時には祭司たちが神殿の門衛も携わてきました。ここで門衛の役割は入口で警備する役割だけではなく、いけにえを捧げる資格がある者を見分けて、神殿
の中に入れるか?入れないのか?
旧約聖書申命記23章には神の神殿に入る資格について書かれています。申命記3:23ー29節「わたしは、そのとき主に祈り求めた。「わが主なる神よ、あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。あなたのように力ある業をなしうる神が、この天と地のどこにありましょうか。どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」
しかし主は、あなたたちのゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。主はわたしに言われた。「もうよい。この事を二度と口にしてはならない。
ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、お前が今見ている土地を、彼らに受け継がせるであろう。」我々はこうして、ベト・ペオルの前にある谷に滞在していた。」
神殿に入り資格について①2節に正しいことを行う人。心には真実の言葉がある人、②3節に舌には中傷をもたない人、③4節に主を畏れる人、④5節に賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人と詩編には書かれています。
幕屋に入ることは今の時代には神の国を考えることが
出来ます。ピリピ3:7ー9節「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。