フィリピ1:7-8
キリストの心
7節を見ます。「わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。」この言葉は「私があなたがたを心に留めている」という意味です。また、パウロはこの節で「私がイエス・キリストの心であなたがたの群衆をどのように慕っているか、神が私の証人である」と言いました。
ここで「イエス・キリストの心で」という言葉は、イエス・キリストが人々を愛したその心を意味します。パウロがこのようにキリストの心でピリピ教会の信徒を慕うことができたのは、その中に住んでいたのがパウロ自身ではなく、イエス・キリストだったからです。自分ではなく、イエス・キリストだったからです。
ガラテヤ2:20節「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」、実際、ピリピ教徒に対するパウロの慕情は神的なものであり、ピリピ教会に対するパウロの慕情がどれほど大きなものであったかをよく表しています。パウロはどうしてこのようにピリピ教会の信徒を慕い、愛するようになったのでしょうか?
パウロは本文でこれに対する答えを提示しています。"私の結びつきと福音を弁解し、確定することで、あなたがたはすべて私と一緒に恵みを受ける者になったのです。"そして、ピリピ教徒たちは、このようなパウロを物質的に、そして祈りと交わりで助けることによって、彼が受けた神の恵みと福音の働きに参加したのです
知っての通り、パウロ使徒がローマの刑務所に投獄された時、多くの人がパウロのそばを離れました。
パウロの心の中にはキリストの心をもって福音を伝えた。