ゼカリヤ14:1-8
その日が来れば
ゼカリヤ書の最後の部分であるバビロン捕囚70年から戻ってきたイスラエルの民でした、自分の国を70年も失ったイスラエルの民でした。その民、彼らに信仰を収縮させる、つまり神殿を再建するようにと言われました。
彼らに神殿の再建を望まれる神様でした。神様の命令を受けて帰ってきた民、そのような夢を持って帰ってきた民である。しかし、現場を見ると石垣と荒れ果てた土地だけが残っているということでした。
神様は生きておられるのか?
神様がおられるのであれば、なぜ、こんな状態なのかという疑問が生じるしかない状況であるのか?今日の最後のメッセージで、神の日、まさにその日が来るということです。1-2節「見よ、主の日が来る。かすめ取られたあなたのものがあなたの中で分けられる日が、わたしは諸国の民をことごとく集め/エルサレムに戦いを挑ませる。都は陥落し、家は略奪され女たちは犯され、都の半ばは捕囚となって行く。しかし、民の残りの者が都から全く断たれることはない。」本文を読むと、あまりにも不条理な世界のイメージが記録されているのです。私たちが神を信じて生きているのに、このようなことが起こるというのだろうか?
私たちが信仰を守りながら生きているこの世界でこのようなことが起こるのだろうか?
実際、このような問題を持って悩み、私たちが祈ることがどれだけ多いか?恨ましく、悔しい問題が起こるか?
時には、このようなことが起こると、神様のせいだと恨んだこともあるのです。どれほど多いか?
それで、ゼカリヤが告げる御言葉は、世の中だけがそうではないということです。あなたも罪人であると言います。
私たちがこのような悔しい事を通して悟るのは、私たちが嘆くべき罪人であるということです。
いつも罪を告白する信仰者にりましょう。