いつまででしょうか?
詩編 13:1-6
2-3節いつまで、主よ/わたしを「忘れて おられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。いつまで、わたしの魂は思い煩い日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。」 2-3節まで「いつまで」という単語は4回も
出てまいります。 私たちも苦しい時、試練に遭われた
時、なかなか祈りの答えがない場合は主よいつまで
でしょうか?と叫びながら祈った経験がありました。
北韓の地下教会の信徒たちはまさにこのように祈るの
ではないでしょうか?南北6・25戦争から71年であります。しかし、北韓のキリスト者はこの長い年月の中で
祈り続けて来ました。4-5節「わたしの神、主よ、顧みてわたしに答えわたしの目に光を与えてください死の眠りに就くことのないように敵が勝ったと思うことのないようにわたしを苦しめる者が動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。」このように霊的にも戸惑いが生じる場合もあります。6節あなたの慈しみに依り頼みます。「わたしの心は御救いに喜び躍り主に向かって歌います「主はわたしに報いてくださった」と。」
状況が良い時に信仰は本物の信仰であるかについて証明
がどうようにされますか?とても状況が悪い中、パウロの
ような状況から信じることが出来る信仰が本物信仰では
ないでしょうか?使徒7:55-56節「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。」ステファノは最後まで主イエスを仰ぎ見て、殉教しました。神の国、つまり福音のために殉教されるのは神様の御心であると信じたとのであります。私たちも十字架の主イエスを仰ぎ見る時、ステファノ執事のように勇気が与えれます。
ルカ24:13ー15節「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。