どこにいるのか?
創世記3:8-10
人間がまだ罪を知らない頃に神様がエデンの園を訪れる時には、信頼と喜びで迎えました。そのことを暗示することばがあります。8節「風の吹くころ」であります。このことばには神様は定期的にい来られたと言う意味が含まれています。しかし、いつもとは違いました。8節「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、」今までとは違う行動をしています。今までは神様の歩く音が聞こえてくると喜びと感謝に満ちて神様を歓迎していたのに、今日はどうでしょう?
神様の歩く音が負担になり、恐れを感じるようになったのです。今まで一度もなかったことが起こりました。
ここで「主なる神が園の中を歩く」という言葉は神様が人間の空間に入ることうを意味します。神様は時間や空間を超越する方です。つまり、この
言葉の意味は神様と人間が美しい交わりの関係で
あったことを意味します。9節「主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」ここで「どこにいるのか」と言う言葉には「アダム、わたしが来たよ」と言う意味が
含まれています。しかし、その日は二人がいつもと違いました。返事がありません。8節「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、」と表現しています。ここで私たちが学ぶことは罪によって与える影響です。罪は神様と人間の関係を断絶します。
罪は神様の顔を避けるようにします。ですから今もなお
人と人の間に罪が生じると顔を避けるようになります。
しかし、いくら人間が顔を避けても行神様は諦めません。
私たちが木の下に隠れても神様は探します。
「どこにいるのか」の言葉にはなぜ、わたしを避けるのか?、あなたは今何をしているのか?わたしはあなたを
助けてあげたいから顔を避けないで、わたしの前に来なさいと、神様はアダムと女に話しています。
私たちも顔を避けないで神様の前に行く信仰者となりま
しょう。
堂 会 長 梁栄友 牧師
名誉 長老 林秉魯 朱瞮中 朱京中 趙舜元
長 老 姜遠基 林英宰 梁昌熙