礼拝は人を変える力があります。キリスト者は天国に行く日まで礼拝を捧げる義務があります。本日の聖書箇所は有名な話でありましょう。イスラエルのカルメル山で
バアルの預言者450人とアシェラの預言者400人でエリヤは一人で彼らに向かって霊的な戦いをしたのです。
30節を見ますとエリヤの祭壇に火が下った理由が書かれています。30節「エリヤはすべての民に向かって、「わたしの近くに来なさい」と言った。すべての民が彼の近くに来ると、彼は壊された主の祭壇を修復した。」
となっています。ここで「壊された主の祭壇を修復した」
と言うことであります。私たちの祭壇はどうでしょうか。
壊された水曜祈祷会、早天祈祷会、午後礼拝などは大丈夫でしょうか。祭壇が壊されると主の霊は働きません。
祭壇の修復をしないままで数だけで行う礼拝は力のない宗教的・形式的な礼拝になるのです。私たちの心の中には霊があります。この礼拝は御言葉が入りますと動くのです。熱くなる時もあります。あるいわ涙が出る場合もあります。このような現象がないと礼拝は怠く感じ、つまらなくなります。ですから多くの人は礼拝時間が長いと感じるのです。霊的な礼拝、火が下る礼拝は何時間を行っても怠いとかつまらないとか言わないのです。私たちはそのような礼拝を経験していないからです。イザヤ1:12-17節では神様も言われています。「お前たちのささげる多くのいけにえがわたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが/誰がお前たちにこれらのものを求めたか/わたしの庭を踏み荒らす者よ。むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない。 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守りやもめの訴えを弁護せよ。」