自分と自分の子どものために泣く
ルカ(누가)23:26-28
本日は主イエス・キリストがエルサレム城に入った日です。
それをキリスト教会では棕櫚主日であると言われています。
その日からイエス様の苦難は始まります。人類の罪のために
十字架で死なれ、3日にはよみがえることを信じるキリスト教で
とっても重要な日です。十字架は救いの力であります。十字架は
人々を真理に導くのです。私たちは十字架を時に、動静ではなく
悔い改めの涙が必要であります。イエス様が十字架を背負って
ガルバリ丘を行かれる時、後ろについていた女性たちは泣きました。その姿をご覧になられたイエス様はルカ23:28-31節で
「イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と
自分の子供のために泣け。人々が、『子を産めない女 、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。そのとき、人々は山に向かって、
『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
なぜ、こように言われたのでしょうか。それはイエスはこのように十字架を背負うことは、ご自分の罪のためではなく、あなたたちを救うことであると言うことです。
ですから罪を悔い改めて、救われるようにと言うことであります。ヘブライ4:15節「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」イエスの十字架は私と私たち自身の十字架であります。ローマ5:8節「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」、マタイ11:17節「『笛を吹いたのに踊って くれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』、悔い改める人は私たちの罪のために十字架を背負われた主イエス様を覚えて涙を流して祈ることです。
イエス様を十字架を見つめながら、また救われていない人々のために涙をながして祈るのです。